【ショートストーリー】
恋してみたら? 第10話 「合い鍵 <由衣 ②>」

どうして涙が出るの?
お気に入りだった家具も
ふざけて描いた似顔絵も
みんなみんな
とっくに色褪せた思い出なのに

「どうしたの? 口に合わない?」
保阪が心配そうに聞いてくる。

リクエストしたレストランなのに、由衣は食がすすまなかった。
理由は分かっている。認めたくないが気になっているのだ。風邪だと電話してきた健吾の事が。
“由衣にしか頼めなくて”という弱々しい声が、耳の奥に残って消えてくれない。

8時半。
健吾が、あれきり電話を掛けて来ないのも気にかかる。よほど悪いのだろうか。それとも、別れた由衣が来てくれないのは仕方ないと諦めたのだろうか。

少し熱っぽい、という嘘を保阪はすんなり受け入れてくれた。
健吾なら、
「せっかく連れて来てやったのになんだよう。無理してでも食えって!」
などとキレかねないシチュエーションなのに。

知らず知らず保阪と健吾を比べてしまう自分に、由衣は苛立つ。
だから、そんなだから、健吾とは別れたんじゃなかったの?

タクシーの中で、保阪はさりげなく由衣の手を握った。
「手は熱くないのにな」。
申し訳なさで言葉が出てこない。黙って俯いた頬に、
「大事にね。明日連絡入れるよ」。
優しい唇が触れてきた。

アパートを訪ねると、健吾は想像以上に衰弱し、痩せ細り、布団を被って震えていた。

汗まみれのジャージを着替えさせ、重湯を作ったり、買ってきた薬を飲ませたりして、由衣が一息ついたのは2時間も経ってからだった。

今、健吾は眉間に皺を寄せたまま眠っている。それでも薬が効いたのか少しマシな顔色になったようだ。由衣が入って来た時は、しわがれた声で、
「…マジわりぃ」、と言ったきり咳き込み、満足に口も聞けない状態だった。

洗い物でもしようと立ち上がると、靴箱の上に置いた合い鍵が目に入る。
“何度呼び鈴押しても出ないから焦っちゃった”
取りに行く荷物でもあったらと、捨てそびれていた合い鍵が今夜は役に立った。

忘れ物なんてないけど…改めて見回すと、部屋のあちこちに埃がたまっている。
こんなに狭かったっけ。それに、こんなみすぼらしかったかな。

お気に入りだった赤い冷蔵庫が随分色褪せて見える。
リサイクルショップから自転車で2人運んだ時はピカピカに見えたのに。

壁に貼ったいつかの悪戯描きが、半分剥がれて隙間風に揺れている。
健吾の描く得体の知れない珍獣と、由衣の定番びっくりウサギ…

やだ、なんで涙が出るの?
ばかみたい私ったら。なんで? おかしいよ。

…いつの間にか、健吾のベッドにもたれたまま眠っていた由衣は、メールの着信音で目を覚ました。
「おはよう。具合どう? 薬と朝食買ってマンションに向かってる。あと10分位で着くよ」
保阪からのメールだった。
                               つづく