「官能小説」といわゆる「普通の小説」のちがい

官能小説を書きつつ、心の奥で「ホントは官能小説ではなく、いわゆるふつうの小説を書きたい」と渇望している作家がいます。

渇望しても、書けないものは書けないので、渇望しつつずっと、官能小説家のまま、という人も大勢います。官能小説と、ふつうの小説は、なにがちがうのか? について、ここでは見ていきます。

官能小説と、いわゆるふつうの小説のちがい

官能小説と、いわゆるふつうの小説のちがいを示す基準のひとつに、「精神的な深みがあるかどうか」というものがあります。ふつうの小説にも、エッチなシーンって、たくさん出てきますよね?

たとえば恋する男女が、いよいよ相思相愛になりそうな手前で、彼女のほうが夜、自室のベッドで彼のことを思ってオナニーするシーンが描かれているふつうの小説があります。

官能小説にだって、こういうシーンがあるものがあります。官能小説は、「見せ場」のひとつとして、オナニーシーンを描きます。

小説って長いので、ポイントポイントでエロシーンを盛り込まないと、読者が飽きますよね? 飽きさせないようにしようと思えば、見せ場をいくつか描く必要が出てきます。

いわゆるふつうの小説は、たとえば「魂の揺らぎを表現する」ためにエロシーンを「借り」ています。エロシーンはあくまで、なにかの「隠喩」であり、本質的に言いたいことを言うための「手助け」をしています。

つまり魂の揺らぎという、形のないものに、形を与えて、読者にわかりやすく理解していただくために、性的な表現を拝借しているわけです。
同じオナニーシーンであっても、そこで描かれる「べき」ものがちがう、ということです。

官能的純文学

本来、セックスとか性的な言動というものは、魂の揺らぎと密接につながっている行為だということです。

魂の浅い部分をエロい好奇心で描くと、それは官能小説になります。魂の深い部分を、純文学的に描くと、それは(ふつうの)小説とか純文学と呼ばれるものになります。

たとえば文豪・谷崎潤一郎の名前は、おそらく誰でも知っていると思います。「教科書に載るようなカタい文学を書いた人」という認識で谷崎をとらえている人も多いかと思います。

が、彼は『痴人の愛』という、一見エロ小説のような作品を書いています。15歳の女子に果てしなく「落ちてゆく」エリートサラリーマンを描いています。

女に溺れる男は、ほぼもれなく貯金が底をつくわけですが、そういうこともきちんと描かれています。彼女のカラダのどこが、どんなふうに魅力的なのか、についても、余すところなく描かれています。

ネタバレになるので、これ以上のことは書きませんが、そういう男女を描きつつも、谷崎の作品は「文学しています」。

官能小説を、いわゆる「おかず」として使う女子がいても、全然おかしくないでしょう。むしろ「それでふつう」かもしれません。

が、世の中には、エロを「とっかかり」として、ものすごく精神的に深いものを描いている立派な文学がたくさんあります。つまり優れた文学とは「人とはいかなる生き物なのか」を追求している文学です。

官能小説に飽きたら、エロそうな名著をお読みになってみてはいかがでしょうか。あなたの恋愛観やセックス観が大きく変わること請け合いです。

 

Written by ひとみしょう