あなたに出会いがない理由
たとえば恋愛において主体性がほしいと思っている人って、具体的にどのようなことが起きたゆえに、そう思っているのでしょうか?
「つきあったらいつも彼に合わせてしまって、主体的な態度で彼に接することができない」ということなのでしょうか。
あるいは男子に「つきあってよ」と言われたら、その彼のことを吟味することもなくパンツを脱いでしまうということなのでしょうか。
基本的には今の日本においては、主体性を持つより、世間に流されることのほうが長い目で見たら価値が高いように思います。
「わたしはこういう人間です」とか、「わたしはこうしたいです」なんて、そんなことは就職の面接でのみ言えばいいことであって、日本の社会は、ある程度世間に流されて苦い思いをしないと、世間そのものがうまく理解できないようになっているのではないか、と思うからです。
そして多くの人は「流されたくない」とか「流されたら損をする」と直感的に思うのか、途中まで流されていても、どこかのタイミングで「わたしはこういう人間だから」とか「わたしはこの範囲でしか生きていかないと決めたから」と、どこかで「自分で自分のことを規定」してしまいます。そして自分の世界観をミスミス小さなものにしてしまいます。
で、「わたしが暮らす範囲に、いい男子がいなくて、ゆえに出会いがない」と言います。
ずる賢く「世間に流されるふり」をする
あくまでもぼくが経験してきた範囲の中での話ですが、自分で自分を規定してしまえば、あとにはパッとした情報も人も入ってこないように思います。
それよりずる賢く「世間に流されるふり」をする、つまり「主体性がないふり」をして、いろんなところに顔を出す。こうすることで、意外な場所で意外な人と出会うことができたり、意外なタイミングで意外とおいしい情報にありつけたりするように思います。
そして「もうたくさんだ」と思えるほど世間に流されてきたら、人はやがて、放っておいても主体性を持ちはじめるのではないかと思うのです。
流された反動として、自然と主体的にものを考えられるようになり、引いてはその考えをもとに、主体的に行動できるようになるのではないでしょうか。
「わたしは御社のために……」って、それ、マジでそう思ってるの?
主体性を持ちたいと思っている人は、まずは「そんなもの、いらない」と思って、アホになったふりをして、世間に流されてみてはいかがでしょうか?
わたしたちはしばしば、世間という巨大な書物を読まないまま、誰か特定の人に恋をして、そのまま結婚します。
それはそれで、べつにかまわないのだろうと思います。世間という巨大な書物を(ときに読解するのが困難な書物を)読まないと、あとの人生がしんどいことがありますが、でもそういうことを他人に強制するのは、どこか違うと思うので、読まない人は読まないでもいいのだろうと思います。でも、ある程度は読んでおかないと、主体性が湧いてこない。
主体性というのは、簡単に言えば自分の考えのことです。相手を知らないと、歯の浮いたような自分の考えしか出てこないでしょう。それは、就職の面接の前にでっちあげる言葉と同じでしょう。
「わたしは御社のために……」って、それ、マジでそう思ってるの? ということです。つまり、主体性がないと半人前くらいに思っている、今の日本の社会がどうかしているのです。
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